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雑考 自由とは何か③

 「平等」に続いて、ペリクレスは人間の評価について語っている。能力主義と見られる部分である。「平等」と「能力主義」とでは矛盾するようなところがあるかのように思われるが、その人の家柄だとかお金持ちだからというのではなく、才能によって評価されるべきだと説いているのである。たしかに人が人の才能を正確に評価できるとはとうてい思えない。しかし、ここでの大切な意味は、単に「平等」だけでなく、人それぞれの才能・特色によって評価されることが大切であって、国家の政治に携わる有能な人を選ぶという、そういう評価というものが、民主主義で大切なるということである。
 人が人を評価するということは、実際かなり無理な要求でると思う。なんの基準もなければやはり、家柄・金銭・権力的圧力といったものが入り込んでしまうであろう。これらを完全に排除することは無理なことなのかもしれないが、現代では技[能力]としての資格制度がその評価の基準の役割を担っている。国家資格、公的資格、民間資格等が作られており、人の才能を不確実でありながらも、その人の家柄だとかお金持ちだからというのではなく、義務教育を終えたことや、どこそこの学校を卒業したとか、国家資格があるとか、新卒である等の事実に基づいた形でなんとか評価を下そうとしているのである。

 以上のデモクラシーとして語られた「多数決」、「平等」、「人の評価」は、よくよくみれば自由の制限から作られた知恵だといえる。一人の僭主による自由や、ある集団のみに許されている自由によって政治決定がなされるのでは民主政治ではなく、多数決というお互いが自由を制限し合うことで成り立っている。「平等」つまり法の下の平等も同様であり、公職につきたい自由、この会社で働きたい自由もそれを互いに制限し合い、それぞれの能力において評価するというのが、デモクラシーとして語られているのである。

「これら三つのことがペリクレスの演説にあらわれた、公的な自由とかれが呼んだものです。公の国家社会は自由な社会であるということは何であるかといえば、政治が多数決によって行われ、法律上人びとは平等な取り扱いを受け、しかもその人柄と才能において正当に評価され、公職に就くことができるとされていること、これがつまり公的な自由ということです。自由社会の条件ですね。」382頁

 第四では私的自由についても語られている。つまりそこには、人はそれぞれ自分の好むところにしたがって自分の生活を営むことができ、それによって隣人からいやみを言われるいやがらせをされることはないという。公的自由の中に私的自由も認められていることが示されているのである。

「しかし、それはあくまでも他人の厄介にならない、迷惑をかけないというのが前提です。そのことを人びとは、法律というものの制約下において違法の行いをしないようにする。特に害を受ける人たちを保護するところの法律、あるいは、文章には書いていなくても、その結果われわれがいろんな意味において恥となるような、不文の法律によって、自分勝手な行動を自然に制御するという方法をとっていると、こう述べているわけです。ですからそういう制限された形で個人的な自由を認めているわけです。」383頁

 私たちが思い浮かべる自由とは大体がこの個人的自由のことであると思われる。だが、ここではその個人的自由にも、遵法の精神や道徳・倫理からの逸脱を恥じる廉恥心という不文の法律での制御がなければならないとされている。つまり、個人的自由と法というものがバランスをとっており、そういう法や廉恥心による制御がなければそれぞれが暴君的自由まで行き着かざるおえなくなってしまうのである。僭主制では一人の王様のもつ権力に恐れて悪い行いをしないように間接的に制御がなされているが、主権が国民であり法や廉恥心による制御がなければ、権力者の出現を待つまで無秩序状態にアナーキーな社会になる可能性がでてきてしまう。
 ここで題材にしている古代ギリシャでは遵法精神がつよく意識されている一文が残っている。ヘロドトス『歴史』には、ペルシャ戦争時、スパルタからペルシャ亡命したデマラトスにペルシャ王クセルクセスが質問する場面がある。クセルクセスにはギリシャ人の言う「自由」というものがよくわからず、こちらが大軍で向かっているとしているときに、自由なんてことで闘うことができるのかと聞く。

 世界の名著第5巻 ヘロドトス『歴史』第7巻 255―256頁より
 クセルクセス、デマラトスの会話の一部分抜き出し

クセルクセス 「・・・当然の理屈にしたがって考えてみるがよい。その数は一千であろうが一万であろうがあるいはさらに五万であろうが同じことであるが、それらの者たちが一人の指揮者の采配にあるのではなく、ことごとくが一様に自由であるとするならば、どうしてこれほどの大軍にむかって対抗しえようか。・・・」255頁

デマラトス 「・・・それと申すのも、彼らは自由であるとはいえ、いかなる点においても自由であると申すのではございません。かれらは法と申す主君を戴いておりまして、彼らがこれを恐れることは、殿のご家来が殿を恐れるどころではないのでございます。・・・」256頁

 法を犯すことを恐れるというバランスが当の自由を維持し、存続するための必要条件と考えられていた様子が、僭主クセルクセスとの対話で伺える。

「この自由と法とのバランス感覚というものは、ギリシャの建築、彫刻、文学、哲学においてみられるものと同じものです。このバランス感覚は、すくなくともギリシャの古典的社会においてはバランスを保つことができたのですが、このバランスは、放っておいても自然に出てくるというようなものではないんです。つまり、自由の立場からだけでは、法に従うということが自明のこととして出てこない。自由の原理には、法に従うとか、道徳的拘束というもう一つの面がなければならないんですが、それは自由からは出てこない。自由原理だけでは十分ではないんですね。そこに、自由主義とか自由社会、民主社会とか言われているものがもっている一つの不安定な要素であるわけです。その不安定な要素というものを、プラトンは『国家』という本の第八巻において、民主制国家というものを描くことによってあらわに示しています。」385頁
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